潜龍鍼師

WEBから鍼灸へ変えた話

久しぶりの更新&近況

年末から更新してなかった。
気が付くと、5ヶ月が既に過ぎているのはびっくり。


近況として、千葉に今住んでる。
で、やっぱりシェアをしているんだけど、その人数が多くて24人。
自分の中では他の人と過ごすということは、人生の中で大きな課題。
放っておくと、どんどん一人の世界に入ってしまう自分の性格を理解しているつもり。
寝るためだけに帰る家なら、どうでもいいが、
今は仕事場を兼ねているから、ほとんどが家。
一人で家でこもりっきりになっていたら、精神がどうかならないほうがおかしい。
かといって、外に出て行くほうではないし、そんな金ないし、
じゃあ、自然と人と関わるように環境に組み込むべしと思った。
外人も5人ぐらいいるから、自宅留学も兼ねて。


いろんな人と話すと、圧倒的に情報量が多くなる。
身近な例だと、料理のこととか、地域のお店情報だったり、


まあ、そんな最近でした〜


PS:そうそう最近は運動不足解消で壁打ちテニスしてます。

ラオスでバス事故

ラオスでバス横転事故に遭った。


まあ人生長くなるといろんなことが起きるもので、
いろんな経験をする。去年の赤痢に引き続きって感じ。
なかなかオチがついて、ネタには事欠かない。


場所はラオスの南部のパクセからさらに南のチャンパサックに行く途中だった。
バスは11時に出る予定だったが、人が集まらないために12時に繰り下げられた。
待っている時に同じバスに乗る予定の日本人と会い、待っている間飯を食いに行った。
この時、彼とこの先結構長くいることになるとは夢にも思わなかった。

飯を食って戻ってくると、乗る人が相当集まっていて、こんなのに乗れるんだろうかと言う感じだった。
これでもかと言うぐらいに過積載。屋根の上にもぼんぼん荷物を載せるし、
狭い3列の乗り合いバスのシートは全員ぎちぎちに詰めても人が乗り切らず、
後ろの一段低いとこにも4人ぐらい立っている。

印象的だったのが、バスの運転手の面がネプチューンの名倉にそっくりだった。


そんなこんなで、バスはチェンパサックに向けて、やっとこさっとこ走り出した。
自分は隣のタイ人と英語で話し始めた。
「I love you!!」ってラオ語でどういうの?とか、かわいいねーは?とか。
回りに女の子がいてくすくす笑っているのを横目でみながら、
旅のこういう空気を楽しんでいた。


と、突然バスが揺れだした。なんだなんだ?
1回2回左右に振られる。その振りがどんどん大きくなる。
5回目ぐらいで、これはマジでやばい!倒れるー!


画像はイメージっす。
画像は事実に近しきイメージっす。ていうか画像撮っている余裕なんてなかった。













ガッシャーン!!!と同時にキャーっという叫び声がバス内に響く。
さっきの轟音とはうって変わり、静まり返った。
一体何が起きたんだ?
、何とか我に返ってとにかく自分の精神を落ち着けようとする。
自分の体に異常ははないだろうか。可動するか?骨は?
心臓がバクバクいって、むしろ痛みを感じない。
完全に動物的な臨戦態勢になっている。

おそらく数秒しかたっていないと思うが、
赤ちゃんや女の人の泣き声が聞こえてきた。

自分は進行方向に向かって左側に座っていた。
そして、左側に倒れたから、右側にいたおばちゃんが降ってきた。
そして、人の塊に埋もれた。
体が動く事を確認すると、反射的に倒れたバスの上によじ登っていた。
おそらく、バスがさらに倒れたり、火災発生などの2次災害を避けるために、
体が勝手に動いたものと思われる。

バスから降りる時に、どうやら体の左側全般的に動きが悪い事を始めて確認した。
乗っていた人はみんな地べたにうずくまって呆然としている。
血を流している人も結構いる。
元気な人は悲痛な感じであーだこーだ言っている。
おそらく名倉似のアホドライバーに文句たれているんだろう。


乗り合わせている日本人がうずくまって痛そうにしているのを見つけた。
どうやら腕が動かないらしい。脱臼みたいだ。にしても痛そう。

数分もたたないうちに、すぐにトラックがやって来た。
病院に連れて行くからすぐに乗れと。警察ではない。近所の誰かみたいだ。

こういう時には、こういう国の人の連携と言うのをすごく感じる。
自発的に動かねば、誰も助けてくれない未整備の社会だからというのもある。



そのトラックがまた飛ばす飛ばす。これまた豪快なスピードで。
確かに急を要しているというのもあるけど。
しかし、乗り合わせている日本人が脱臼している右腕が振動して痛がっている。
また、こんなスピードでまた横転したら今度は命がない。
そう思い、slow!!slow!!と力いっぱい叫んだ。
当然運転手には届いていないし、英語を理解すらしていない。
隣のラオ人がラオ語にで○△?って言い出した。するとトラックは減速した。


元々出発したパクセーに戻ってきた。
そこしか病院はないらしい。南部では一番大きな町だけあって、
施設としてもそれなりに大きい。運悪くこの日は日曜で医者がいなかったので、
駆けつけてくれるまでに30分とか時間を要した。


運ばれた人達におそらく重症の人はいなかったと思う。悪くて骨折。
でも額や頭から流血している人もいるから見た目は結構ひどく見える。
それでも意識不明とかはいないし、うめいているような人もいなかったのは幸運だった。


ラオスの医療は適当である。本当に重症な人で外国人ならば即座にタイに輸送されるらしい。
じゃ現地人はというと適当な処置だけで済まされてしまうとか。
また処置のための金がないというのもある。
レントゲンを撮っただけで35000kip(¥420)ぐらいする。
この金額は外国人の一泊の宿泊料である。現地人からしたら法外な額であろう。


自分の場合、外から見て特に問題なく見られなかったから、
何も処置してもらえなかった。
打ちつけた左側全体が、時間が経てば経つほど痛みが増してくるから、
湿布みたいなものを要求したら、タイガーバームを塗っておけと言われた。
このレベルではむしろ処置をしてもらった方が怪しい。
誰かに聞いた話では、ラオスで目薬を差したら失明したとか。怖いわー


乗り合わせていた日本人の人が脱臼していたから、肩を入れる時は結構大変だった。
始めに部分麻酔をかけて、それでダメなら全身麻酔でやろうと。
でもラオ人は強いから麻酔なんかなしでやるよと医者にあおられて、
彼も部分麻酔で肩を入れる事を決意した。
医者が2人がかりで"せーの"って入れたら、ぎゃーって悲痛な叫び声を上げていた。


そういうやり取りを英語でしていたが、彼は英語が分からなかったので全てその場にいて翻訳した。
事故がおきてから3時間ぐらい経過していたが、左肩、左腰、左足が結構痛くなってきていてそれなりにしんどかった。
レントゲン室とか処置室とか清算とか、ぐるぐるあちこちたらい回されるんだけど、
思うように動けず、あちこちがきしむように痛む。
まあそれでも英語はやっておいてよかったと思った。
例えば麻酔(anesthesia)という単語とかでも
記憶の片隅に引っかかっていて、何のことなのか理解できた。
こんなラオスの辺境の地でもやはり意思疎通は英語である。


たまたま現地の病院で働いていたJICAから派遣された日本人の看護婦さんにそういう話を聞いた。
彼女から聞いた話では、数ヶ月前に起きたバス事故では18人が死んだらしい。
それを聞いて背筋が凍った。と同時に生きているということは偶然でありラッキーだとも思った。


パクセーには4日ぐらい滞在した。その間、日本人の彼と一緒に滞在した。
自分は歩いて外に出るのが困難だから飯を買ってきてもらった。
彼は英語が話せないから、自分が付き添いで病院へ行って(byトゥクトゥク)、
彼の保険関係の書類作成とかの翻訳をした。
自分は旅行保険にも入ってなかったし、まあお金もらえたとしても数千円の話だし。
まあそんな感じで互いに補完していた。お互い相手がいなかったらさらに困難なことになっていただろう。


またタイミングは悪いことに、ラオスの滞在期間がもうすぐ2週間になろうとしていた。
それを超えると不法滞在となる。日本大使館に事故の旨を伝えて、
なんとか臨時でVISAを発行してもらえないか問い合わせたら、
不法滞在しても罰金を払えば出国できるとの回答だった。
一体どんな事が業務内容なんだろうかと疑問に思った。
とにかくなんとか日増しに回復傾向にある体を鞭打って出国するしかない。
と言っても、パクセーからタイの国境まではせいぜい2時間ぐらい。
そこからバンコクまでは13時間ぐらい。


移動中、最悪だったのが、腹がなぜか下痢ってトイレ駆け込んだはいいが、
和式トイレが基本だから、足を曲げると激痛に襲われる。
そんなのお構いなく下痢はやってくる。バスもそんなに待ってくれない。
もたもたしていると置いて行かれそうになる。
とにかく何でこんなに追い詰められているかわからんが、
我慢、忍耐、気合としかいいようがなかった。去年の赤痢を思い出す。


バンコクに戻ってきたら、まあ体も大分楽になってきて、
なんとか階段上がり降りもできる感じになってきた。
カオサンロードで一番楽なのが、飯。30秒歩けば屋台がある。
そんな感じで一週間すでに予約した航空券を待ってなんとか帰ってきた。


まー、いろいろあるもんですねー。


この旅の画像もUPしたんでどうぞ。

タイ
  バンコク -> スコータイ -> チェンマイ -> チェンコーン -> フエーサイ; ->
ラオス
  ルアンパバーン -> バンビエン -> ビエンチャン

チャリ旅行記 日本縦断編 その3

2001/9/24 函館 => 黒岩 87km

朝起きたら、相当いびきをかいていたらしい。
みんな引いていた。自分の下に寝ていた人は顔が引きつっていた。
ものすごいバイク並みのサウンドだったとか。すんませんねー。
朝からまたおっちゃんが酒を振舞い出し話し出す。長いんだこれが。
宿を後にして、ラッキーピエロのチャイニーズチキンバーガーなるものを食った。
まあ、うまいけど、自分で作ってもこんなもんじゃないかと勝手に思った。
五稜郭を横から見てみたけど、ただのお堀にしか見えんかった。
あれは上から見ると、幾何模様みたいですごいのにね。

函館を出て少し北にいったとこの峠を越えたら、どーんと山が見えた。
これぞ北海道といった感じ。
森(地名?)に行ったら、なんかやらかした犯人が逃走中だとか。
マジかよとか思って、足早にそこを離れた。
そうそう、"いかめし"は完売だった。残念。
明日は"かにめし"が食いたいなー。って食い物ばっかし。
というのも、北海道に上陸するまで、
観光っぽいことをせずひたすら一日中がりがりこいでいたから、
とうとういろんなもの食べたい欲が爆発したっぽい。カツゲンもお気に入り。



大きな地図で見る

2001/9/25 黒岩 => 虎杖浜 136km

今日は朝一かにめし(¥1000)を食った。
まあまあの味だけど、一度食ったらまあいいかな。
室蘭で雨に降られてブルー。
音の鳴る砂浜は雨でならねー

登別のさぎ湯、すっぱくて鉄っぽくて硫黄の味、飲めないらしい。
味だけチェックして吐いた。


道の途中で函館の宿で一緒だった人たちと再会した。
彼らとは、今日の宿を共にすることにした。
というのも宿というか、銭湯に入ると、
二階の座敷で一晩寝れるらしい。ナイス情報サンクス。

夕方は例の銭湯に行って、ひとっ風呂浴びて、例のバイカーと飯を食った。
例によって、彼らはガッツし食材持っていたので食べされてもらった。
この場を借りてお礼、あざーす!



大きな地図で見る

2001/9/26 虎杖浜 => 札幌 103km

またまた朝から飯を食わせてもらった。
やっぱバイクだといいわなー。
いろんなものを搭載できて、料理とかもガッツしできる。
うどんとほたて缶詰、うまかったわー。

天気は雲一つない快晴、言うことなしだ。
そこら辺の地元のおっさんと話していたら、
どうも近くに温泉があるらしい。早速行ってみた。
その名も"フンベ温泉" これぞ正に"旅"といった感じの
汚くてちっちゃい掘っ立て小屋が海の崖の上に立っている。
眼下には海が広がっている。最高だった。
中に入るとまず目に付くのが、怪しげな三つの絵が飾られている。
両サイドは船の絵で、真ん中は女の絵。色使いがもう毒々しくて、
イメージとしてはムンクの叫びみたいな感じ。
早速服を脱いで浴槽に浸かる。
味はそう海の近くっぽく塩味が利いていて、ホタテの風味も心なしかする。
色は白く濁っている。
見晴らしが最高で、ホント生きててよかったと感じる時だった。
九州から毎日がりがり走りづめ走って、幾度となく雨や風が行く手を阻んだ、
そんな記憶の先の出来事だったので、爽快感も格別だった。

人生で感動する瞬間って、単にギャップだったりしてとこの瞬間感じた。

空は晴れ渡っていて風が気持ちいいー、そんなお昼の出来事。


とうとう札幌に来た。自分にとっては初めてだ。
かなり栄えている。すすき野を通り過ぎて、H大に行く。
そこでH大ヨット部のKと待ち合わせ。今日は彼のうちに泊めさせてもらった。
そうそう、その前にH大ヨットの先輩の送別会に臨時ゲストとして出席したら、
うちの部の一コ先輩のMさんが研究の為にH大に長期滞在していた。
というかほぼH大ヨット部員として、溶け込んでいるようだった。
なんでも、研究の為に日々や熊と格闘しているとか。どこまで本当なんだろう。



大きな地図で見る

2001/9/27 札幌 => 小樽(祝津) 40km

朝一起きて、二度寝してしまった、次起きたら10時を回っていた。
やべー遅刻やー。
というのも、H大ヨット部の練習に参加することになった。
Kは車で後輩を拾って先にいくから、
俺はチャリで行くことになっていたけど、いくらなんでも遅すぎやろー。
片道40km遠いのー。彼らは毎週末これを往復しているというのか。
祝津に着いた。ホント知っているのは数人だけ。
主将のM川は7帝に来ていたから知っている。
彼のネタだったケンシロウはおもろかった。今でも覚えている。
ハーバーの前の青塚食堂の花魚丼はマジでうまかった。
http://pds.exblog.jp/pds/1/200809/26/56/c0097856_0575471.jpg
ほたて汁とかつけものも細やかで、ほっけの蒲焼風かな。山椒もぴりっと辛くて。


午後からレーザー(一人乗りヨットの艇種名)に乗った。
旅の締めくくりにレーザーに乗るとは夢にも思わなかった。
昨日は秘湯で気持ちよか〜ってやっていたのが、今日は海でヨットである。
移り変わりにも程がある。


練習を見ていたが、代交代して間もないというのもあるけど、
まだまだ先が長いなーと思ってみていた。でも北海道の冬は厳しく、
3週間後には海上での練習は終わりらしい。
あとちゃんと練習を定期見てくれるOBが不足していて、
Kぐらいなんだとか。やつも愛想尽かしている感もあるけど。
夕飯はKにドンキーでまたまた食わせてもらう。わりーな貧乏なだけに。
艇庫というか合宿所は築3年ですげーきれいだった。
夜には恒例のミーティングに出席して、なんかえらそうに言ったみたものの、
あんまし参考にはなっていないだろうから、流してもらえればと思った。
その日は艇庫で寝させてもらった。艇庫と言ってもうちの大学とは雲泥の差で、
どっかのコミュニティーセンターといった感じ。
にしても毎度、他の人、いびきごめんなさい。



大きな地図で見る

2001/9/28 小樽 => フェリーで福岡へ戻る

朝は混ぜご飯とちょっとドロッとしたスープを出してもらった。
貧乏チャリダーにはありがたい施しだ。
朝から強風で出艇中止。トレーニングと座学することになった。
まあ自分はすることがなくなったので、再び旅に出た。と言えばかっこいいけど、
単に小樽港から出ているフェリーで福岡に帰ることにした。
(直行便がなかったので、小樽=>新潟 =100Kmチャリで走る=> 直江津=>福岡)
旅の最後を部活の合宿で締めれたというのは、なんかよかった。
ところで何でレスQの事をチャカて呼ぶんだろう?


最後どうしてもいくら丼を食べたくて、
探し回ったんだけど、いまいちここは当たりだろうというとこが見るからなかった。
そんなこんなしていたら、フェリーを危うく逃すとこだった。
どうもこういったタイムマネージメントが抜けているのは反省の余地がある。
六花亭のバターサンドは相変わらずうまかった。ホント大好き。

まとめ

こうして自分の念願だった日本縦断は幕を閉じた。
旅の中では毎日がめまぐるしく変わっていく。
結論としては本州は基本的にそこまで刺激的ではなかった。
まあ、ひたすら北を目指してこいでいたというのもある。
北海道はチャリダーとかバイカーとか変な人らが集まってくるからおもろくなる。
また、そういった人が集まる場所に行かないと会えない。


必要なことはこんな感じ
①いつも強いイメージを持ち続ける。
②実行するために必要なもの(情報・道具・資金・体力)を集めておく
③一歩踏み出すかどうかの勇気


布石として前回の屋久島の経験にも大いに助けられていると思う。
あの経験から、大体一日平均移動距離が類推できたり、
体力や実際に想定される不具合に対して先回りして対処できたと思う。


データ
 走行距離:2300km
 走行日数 :17日 2001/9/11-28
 一日の最長移動距離:230km 2001/9/17
 一日平均移動距離:135km/day

チャリ旅行記 日本縦断編 その2

2001/9/14 斐川 => 鳥取 158km

朝一からケツが痛い。体力は戻っていたが、痛くて座ってこぐのは難しくて、
もどかしかった。ほか弁のビーフ100円引きはなかった。残念。。
やっぱ地域限定なわけね。
そんでもって、雨もぱらぱらしてきた。昼ぐらいにローソンの前でうとうとと寝ていた
道は山口県よりもずーっと平坦で走り易いはずなのに。
途中またチャリダーに会った。これから向かう坂にやられたらしい。
道の駅:赤碕ポートにて。
にしても今日は疲れた。体はガタガタ。相当眠いし。
コインランドリーを使ってみたが、金の浪費だった。
乾燥機使ったのに、ぜんぜん乾燥されてない。
しかし、飯はうまかった。というか食いすぎ。
サイドミラーつけてみた。バッチり後ろが丸見え、こりゃえーわ。


大きな地図で見る


2001/9/15 鳥取 => 丹後大宮 169km

今日はいい日だった。一日中雨だったけど、朝一コンビニのトイレに駆け込んだ。
ぎりセーフ。鳥取砂丘はゲレンデみたいなでかさだ。初めて日本最大の砂丘を見た。
朝から雨がじゃーじゃー降っていて、砂丘に川ができていく様子がわかる。
あたかもミニチュア版の大自然を見ているみたい。
あまりに雨が土砂降りだったので豊岡で銭湯に入った。
その名も京極湯。いかにも下町の銭湯という感じ。
こういう時にああ旅だなと感じる。
ガラガラっと引き戸を開けると、牛乳瓶の底みたいなメガネをした番頭がいた。
中に入ると、ライオンの口からどぼどぼと熱いお湯が流れ出てきている。
はぁ〜極楽じゃ〜。たまらん。
そうこうしているうちにヤクザ登場。親分とその子分2人。
もんもんガッツししょって、いかにもそっち系ですわっちゅう物言い。
いったいどこまでべたべたなんだか。フルコースかよ、俺はもう満腹だってーの。
古きよき風情ある日本の文化はぜひ維持していってほしい。
世界のどこを探してもこういう雰囲気のとこはまずないなー。


大きな地図で見る

2001/9/16 丹後大宮 => 大飯 73km

朝置きてバックがない!
置き引き初体験!!
しかし、とられたのはバック2つのうちの1つ。
しかも中身は、汗にまみれた下着類。ざまーミロだヴォーケとか思ったが、
実は精神的に結構ショック。誰かが誰かのモノを掠め取るなんて。
そもそも昨日の夜を振り返ってみると、
そういえば、駅に着いたときにベンチのとこにヤンキーカップルがいた。
でも、まあいいかと思ってちょっと彼らと話し始めたら、
彼の武勇伝※をたっぷりと聞かされて、その後やっと彼らは去っていった。
寝たときに下着の入ったバッグはちょっと離れたとこにおいてあった。
だから、ヤンキーが戻ってきて盗って行ったか、
他の誰かが深夜に盗っていったか。
ま、いずれにせよ日本でも置き引きぐらい簡単に起きるみたい。


結局この日は、置き引きのダメージでやる気がまったく起きず、
宮津湾でヨット(470とスナイプ)が浮かんでいたから、
自然と眺めていた。いや正確には、
どっちが伸びるかとか風はどっちがいいかな?とか読んでいたんだろう。
そうやってヨットの事を考えていると自然と心が落ち着いてくる。
ホテルみたいな建物に田舎の銭湯があったので、どっかりと風呂に浸かった。
この日はどうも癒される日のようだ。


※彼は三兄弟の末っ子だが一番の暴れん坊。
親父は親父でまたヤクザみたいな感じ。
そんでその親父から引き継いだ血塗られた木刀みたいなものがあって、
それで何十人も相手にぼこぼこにしたとかそんなような話。



大きな地図で見る

2001/9/17 大飯 => 横山 230km

この日は前日にやる気がなかった分だけ、反動でよくこいだと思う。
そして平坦な道が多かったのも後押ししている。
時間さえかければ、どんだけでも前に進んでいける気がした。
だからとにかく時間をかせいだ。
AM7:00〜AM1:00 18時間こいだ。
おそらく自分の人生でも最長になるかもしれない。
一日でやるんじゃなくて、続いている旅の中での記録だから、
それなりに自分でも満足かも。
この日衝撃だったことは、トンネルで結構下りがきつく、
後ろからトレーラーが迫ってくる。
地面には金属の側溝が。やばっと思った瞬間こけた。
この瞬間マジ死んだと思った。
次に来るトラックの衝撃をイメージした。
つぶれるとはどんな感じだろうかとも。瞬時にイメージが駆け抜けた。
しかし来なかった。トラックは避けていった。
こうして自分は今も生きている。



大きな地図で見る

2001/9/18 横山 => 市振 100Km

今日は2回もパンクった。
コンスタントにがんがん走れないとこがまた旅っぽい。
一回目のパンクを直したが、最後空気入れを抜くとき失敗して芯を折った。
魚津のチャリ屋で新しいチューブを買ったが、
どうもチューブの太さが違ったらしくて再度パンクした。
うまくはいかのですのん。記録の次の日は休息日と決まっているのか。
まあでも昨日の疲労がずしっと重くのしかかってきている。
無理は禁物だ。なにせ北海道はまだまだだ。
風は珍しく追い風。こいでいないわりに伸びてくれた。
この日は道の駅市振で寝る。
コンビニのおばはん(ヨットハーバーのおばちゃんI村さん似のコワソーな感じ)から聞いたのは、
その昔関所があって、難所でもあるそうだ。
まあ関所なんてせき止めやすいところに作るんだろうね。



大きな地図で見る

2001/9/19 市振 => 柏崎 100Km

朝一難所の"親不知 子不知"に行った。
確かに地形は崖になっていて、やばいが道的には、
歩道がなくトラックがばんばん飛ばすのでそっちの方が怖かった。
途中から歩行者用の道に入っていったら、雨が急に降ってきて最悪!!
しかもリュックの中はビニールに包んでなくて、
地図とか早急にカッパで覆ってかばうように休憩所に駆け込んだ。
雨が止む気配がないので、仕方なくそのまま走り出した。
難所を越えたとこで、道の駅があり、そこでチャリダーと会った。
彼は北海道を回って、京都に帰るとこらしい。
糸魚川のとこでまたパンクった。
なかなか進めないなー。
徐々に雨が止んでくる。北の方はどうやら降っていないらしい。
結構場所によって違うものだなと。
チャリ屋探しをまたする。そのいい方法を見つけた。
本屋でサイクル雑誌を見ると、
どっかに町のチャリ屋が乗っているから、
そこに行けば確実にチャリ屋にたどり着ける。
人に聞いたり、適当にうろうろしていると時間が取られるだけ。
この日に走った道路の中でも、久比岐自動車道という全長20kmぐらいの道を走った。
ここはマジで日本でNo1じゃないだろうか。
だってチャリのためのトンネルがあるぐらいだし。
ここの村長は間違いなくチャリオタクとみた。
完全に歩道と車道から隔離されて、自転車のための自転車道
こんな道が増えたら、渋滞緩和とか省エネとか運動不足が一気に解消されるだろう。
高速道路はもうええねん。これからの時代は高速自転車道の時代やわ。



大きな地図で見る

2001/9/20 柏崎 => 笹川流れ 172Km

今日は終始向かい風やった。最悪だぜんぜん進まねー。
海から風が吹き込んでくる。こぎ方をちょっと変えてみて、
重いギアで筋肉に負担がかかるようにしたら結構いい感じだったが、
後で疲労がたまってきて、力が入らなくなった。
とあるコンビにでサンドイッチを買ったら、
近所のおばちゃんがわらわら集まってきて
一杯もらった。コーヒーと茶とするめになったタコ、海苔ももらった。
どんだけもらっとるちゅうの。



大きな地図で見る

2001/9/21 笹川流れ => 道川 160km

ラジオが欲しくなってきた。
なんともずーとひたすらこいでばっかいると暇だ。
そろそろ緯度が上がりだしてきて、気温が下がり始めているのと、
天候によるのもある。朝は10度を割っているだろう。
朝、酒田の町に入ってきたときぱらぱらしていた雨が、一変して土砂降りになった。
この時、最上川を横断して橋の上だったので、避難するまでにだいぶ濡れた。
しかもこの前線通過に伴い、気温が一気に落ちた。もう心身共にやられまくって、
どっかのスーパーに避難したはいいが、
寒さとこれからどうしようという先が見えないことから
呆然とそこに30分ぐらいたたずんでいた。
それでも腹は減る。バンバン亭という店で飯を食った。
何がいいかと言うと、ほとんどセルフで自由さが気に入った。
にしても、向かい風とこの寒さは何とかならんのだろうか。



大きな地図で見る

2001/9/22 道川 => 碇ヶ関 142Km

今日は快晴。朝から放射冷却で一段と冷え込む。
低血圧の自分にはなかなか起きずらくなってくる。
日が昇ってきて何とか暖かくなってきた。
夜走っていると、冷たくて手袋が欲しくなってくる。



大きな地図で見る

2001/9/23 碇ヶ関 => 函館 50km

とうとう夢にまで見た青森まで来た。
振り返ってみるとたった11日間。やってみればできるものだ。
この時、日本って案外狭いと思った。
とにかくここまで到達して感動したというより、
目の前の北海道が気になって仕方がない。
それだけ、本州は走っていてあんましおもろくなかった。
まあ、前回の屋久島との比較だったので、しかたないわな。
ネタとしてりんごなるものを食してみたが感動なし。
フツーじゃん。。。時期じゃないのか。


フェリー(¥2100)でさくっと函館に渡り、
塩ラーメンを2軒食べた。感想としては、
ただのコンソメスープに麺が浮いているといったもの。
塩で味付けする限り、味に限界があるなと思った。
だって、博多ラーメンのあのコクと味わいには及びもつかない。
あー思い出したら食べたくなってきた。ここまで出前してくれ。


この日はライダーハウス来夢来人(らいむらいと)に泊まった。
居間では10人ぐらいいて焼肉会をしていたから混ぜてもらった。
なんか屋久島で泊まった晴耕雨読みたいな感じ。
やっぱバックパッカーが集まるような宿はこんな風になるんだろうね。
なんかいろんな話をした。中でもはげたおっさんのトークが炸裂していた。
疲れていたせいか、酒の回りも早く一発げろって寝た。



大きな地図で見る

チャリ旅行記 日本縦断編 その1

自転車の遠乗りをする人なら一度は憧れたことがあるかもしれない。

日本縦断

やるならちょっとできそうかどうかわかんないが、でっかくやりたい。
じゃ端から端でいいやんけ、ということで当時住んでいた福岡から
北海道を目指すと言う単純な考えからだった。
鹿児島からじゃないと縦断にならないと言われるかもしれないけど、
まあ前回行ったし、細かいことはいいや。


何でそんな疲れることをするのか?
ホント単なる興味。本当にこの道が青森まで続いているんだろうか?
もし、到達できたなら何かわからないが、いい気分になれるんじゃないかと思って。
ものすごく抽象的だけど、結局大きな選択をするときなんてロジカルじゃないみたい。
なんかいいじゃんぐらいの感じ。
やるなら最速がいい。自分の中では自分との戦闘という感じだった。
だから、宿をどっかにとってとか、そんなぬるいことは不要。
鉄道の無人駅で寝る。もしくは公園のベンチ。
一日走って、体力が尽きた時点でなだれ込むという寸法。
まあ、この平和な日本で殺されることもないだろうとタカをくくった。都会じゃなくて田舎だし。


前回の屋久島で経験した点をフィードバックして下記の点を変更した。

・雨天で泥はねがひどく顔にかかり視界確保ができない。背中もべた濡れ。
 =>前輪に泥除け装着 後輪は搭載したバッグが泥除け代わり。
・チューブラータイプのタイヤがパンクすると、全部交換するしかなく、
 また、雨天時に交換後すぐに走り出すのはタイヤが外れる危険がある。
 (リムセメントが乾ききらないから)
 =>WOタイプという一般的なタイヤに変更。これはチューブとタイヤが分離でき、
 パンクしても簡単に補修できる。
・背中に重い荷物を背負うとケツの穴に負荷が集中して痔になり、
 トイレで恐ろしい痛みと戦う羽目に。
 =>自分はMじゃないので、バックをチャリに直接搭載し背負わない。
 軽量化のためテントもコッヘルもバーナーもなし。寝袋のみ。
 着替えは3日分ぐらい持ち洗濯して、晴れたら自転車の後ろにくくりつけて、
 走りながら乾かす。実際には、毎日ほとんど雨ばっかだったので濡れっぱなし。




2001/9/11 福岡 => 長門 180km

今日とうとう念願だった北海道へ旅立った。
天気は台風が近くにいるみたいで、風が強く風向は北=>北東
要するに台風に追いかけられる感じで背中に背負っていることになる。
初日から向かい風はきつい。数日して徐々になれた後ならまだしも。
でも、このまま追い風になったら相当すすむんじゃないかと期待もした。
にしてもファミレスのジョイフルがべたべたにある。だから昼も夜もそこ。
ジョイフル万歳だ。
夜は結局公園の自販機の前にベンチがあったからそこで寝た。
雨がぱらぱらしてきたがまあ何とか屋根があったからしのげた。
で、寝初めて30分した時若者4人組がやってきた、
なんかこそこそ話をしていたがやがてどっかいった。
後から遠くでにぎやかに盛り上がっていた。
田舎の若者は夜中こんなとこに来てwデートかよ、
安上がりやなとか思った。
向かい風の割りに180Kmぐらい走ったのは初日の出だしとしてはまずまずだ。
このままスタミナを維持していきたい。



大きな地図で見る

2001/9/12 長門 => 浜田 139km

朝ペースを早めに行ったが、鎖峠(231m)のアップでやられてダウン。ほとんど押した。
下りはその分だけ最高だった。チャリのいい点は下りの爽快感。
この日の風向きは昨日にも増してもっと最悪で真正面からだった。
山口県の地形は結構きつい。須佐の手前までかなりの多くのトンネルを通った。
長いとこの真ん中では懐中電灯をつけるぐらい暗かった。
歩道は狭いし、いつトラックにふらふらと巻き込まれてもおかしくない状況。
トンネルの先が遥か遠くにぼわっとかすんで、奇妙な世界をかもしだしている。
須佐を抜けたら、ぱーっと一気に視界が広がった。
真っ白な白波が打ち寄せる。海一面真っ白。こんな時、自分の中の何かが突き動かされる。
何だろうか?この暴れるような、でも暴力的ではなく、何かを破壊するでもなく、
そう、"やってやるでー"という感じだ。

このあたりは結構温泉がある。一日が終わった時点で入って寝られればベストだが、
そううまくいかない。明日入ろう。
国道9号に入ってからは踏んだり蹴ったりだ。車の事しか考えていない。
トンネルで歩道がなかったり、勝手に車道と切り離されたり。
それに引き換え191号はよかったわー

どっかの町役場のテレビで信じられないものを見た。
アメリカでテロだとか。そう今でこそ歴史に刻まれることとなった9/11の日。
旅の2日目、ニュースで飛行機が世界貿易ビルに突っ込み、倒壊する動画を今でも鮮明に覚えている。
日付が一日異なるのは、日付変更線をまたいでいるからだと思う。



大きな地図で見る

2001/9/13 浜田 => 斐川 96.5km


今日は朝から、他のチャリ野郎に会った。
なんでも8月後半より明石から旅に出て、北海道を回って、
今に至るとか。一日に150km〜200km進むらしい。
とんでもない奴だ。18歳だとか。
でも日本を回るのは既に三回目らしくて、道をわかっていた。
彼曰く、旅に出て一週間は筋肉痛らしい。
この筋肉痛があと一週間も続くのかと思うとげんなりしてくる。
やっと、温泉に入った。温泉津温泉(¥200)ゆのつおんせんと読むらしい。
とにかく濃かった。
白く濁っていて、そう別府のように壁が茶色く変色して、
卵の腐ったような臭いはしなかったが、
鉄っぽい臭いがした。飲めるみたいで、
口に含むと効く薬と言う感じで、塩辛く変な鉄分の味もした。
風呂は情報交換の場所だ。いろんな人が集まってきて話をする。
本来人間とはこういう社会的な生き物だと思う。
ここで聞いた話で一番印象的だったのは、北海道の羅臼というとこが一押しらしい。
変な名前だったので頭に留めておいた。
後から振り返ると、旅先で言いと言われたとこはことごとく行っている。
誰かから聞いた能登も会社の同僚と数年後に行くことになる。

チャリ野郎に見習って、朝を有効に使うことに決めた。
要するに距離を稼ぐ方法は時間をとにかくかける事。
寝るのと飯以外は、常にコンスタントにこぐことなんだろうなと。
雨でもだ!後つかえるのは明るいうちが結局効率がいい。



大きな地図で見る

弱い自分とつきあう

こう人生が長いといろいろある。いい事もあるけど、そうでないことも。
その中でも気分が落ち込むこともある。
例えば、自分自身の能力不足、信頼の置けない自分、
他人とうまくいかない関係、他人の中傷、身体能力の低下、などなど。
人それぞれいろいろあるかもしれない。


まあ要するに自分の思い描く道と剥離して、
現実には低いところでくすぶっているような時に起こりがち。
だから他人に相談すれば、「まあたいした事はないから気にするな」と言われる。
そう言われて、自分がハイそうですかと納得できればいいが、そんなに単純じゃない。
いや、やっぱりそうじゃないとか、
堂々巡りでぐるぐる思考が行ったりきたりすることもある。


しかし、この感情をうまく利用してバネにできれば、
次に大きなリターンとなる可能性を秘めている。
逆に、コントロール不能に陥った感情に支配され、慢性的になると肉体に影響したり、
己ばかりか周りの人までも巻き込んで悪影響を及ぼしかねない。


次の方法の模索と実行に頭が切り替わって集中できればいいが、
大体においてその前に感情的に沈んだり、
落ち込み打ちのめされる。それが人間だから。


自分の中では、そのリカバリーの方法について、
いくつか種類があるみたい。


方法1:体を動かす。

しかも即座に。ごちゃごちゃ考えているうちに体も止まっては元も子もないので、ここは集中する。

自分の場合は散歩か自転車に乗る。当然簡単なエクササイズなので、
沈んだ感情はすぐに切り替わるわけはなく頭の中をぐるぐる回ってはいる。
しかし、一人で部屋の中にいるよりかは考え方がいい方向に考えるように、どうもできているみたい。
これは体を多少なりとも動かすということが頭にいい影響を与えているんだと思う。
頭が止まったときには、体を動かしてみる。心と体はどこかで一つにつながっているんだと思う。

あと掃除もなんかいいみたい。手を動かして、何かをきれいにするという作業は、
精神的にもいいようだ。

方法2:情報を取り入れる

音楽を聴く、映画を見る。いまやネットにつなげば膨大な情報へアクセスが可能。
この時の目的は、刺激を受けて今の自分の心を揺さぶるというとこに自分は集中する。

方法3:人と話す

これは万国共通だと思うけど、確かに気分は一新される。単純なトークでもいいし、
相談できる人がいれば、ありがたい限りだ。

方法4:己を受け入れる

自分というのはこの程度なのかということを悟る。
巷にあふれる情報は、誰かの成功体験とか、たまたま起こった事柄を書きたてている。
内容的にも刺激的な情報じゃないと誰も見てくれないから。
しかし、そんな情報ばっかに触れすぎていると、自分と比較したときに居場所はなくなる。

付き合っている誰かがいるわけでもなく、友達だって数えるだけしかいない。
将来食っていけるような保障もスキルもない。
そんな存在だって呼吸して、生きることはできる。
そしてこの先ずっと変わらないかもしれない。それでもいいと思えるかどうか。
最終的には呼吸して、存在することができれば満足と思えれば、
おそらく己は受け入れられると思う。
勝手に自分の頭の中に作り上げている偶像を壊し、
しがみついていた何かを、全て捨てることだと思う。

方法5:考えない

これは簡単そうだが、実は難しい。
理屈としては、考えてもどうしようもなくて意味がないが、
感情的にそれが納得できないという時、勝手に思考が奪われている。


考えを止めるためには、自分は十年前を思い返してみる。
そうすると何が見えてくるかというと、その時もやはり今と同じように、
喜怒哀楽があって、日々浮かんだり沈んだりしていた。
しかし、その中でも今につながっている重要なことがある。
そのとき一生懸命やっていた活動や経験が後々につながってきている事を、
長く生きれば生きるほど理解するようになってくる。
それと対比して、いま直面している問題というのは、後々いかほどの影響があるか、
と考えると多くのケースは案外たいした問題とならないかもしれない。
そうイメージできたら、ちょっとは胸がすっと楽になる。


今まで経験してきて、時が経てば感情は薄れていくということを既に知っている。
十年前と同じようなことで浮き沈みしていると、若い自分に笑われそうだ。
後々につながる事に時間を費やした方がいいと思う。


復帰

しかし、いつまでも悲劇のヒーロ・ヒロインに浸っているわけにもいかない。
時は無常にも過ぎていくばかり。
あくまでも上記の方法は、負の感情との付き合い方。
少しでも戦ってやろうという前向きな方向に向けば、即座に行動すべき。
まだ、自分は死んではいない。
何かしら外に働きかけられる何かがあるはずだ。そこに集中する。


ちゃんと実行できる可能性がある行動を立てる。
というか万年三日坊主だと、そんな風に自分を裏切り続ける方が苦しい。
何かしら一つ、どんだけでもいいから敷居を低くして、超えたということが重要かと。
一つ超えれば後は、量と時間の話で、どれくらいのレベルへ、
いつまでということに目標が変わるだろうから。
それでも、ものによっては同じ事を繰り返すかもしれない。これもまた人間。
そうしたらまた方法を変えるしかないだろね。
人に聞く、本を読む、自分でしらみつぶしに試しまくる、環境を変えてみる、こういったことかもしれない。
場合によっては、完全にそのことから遠ざかることが、解決になるのかも知れない。



日々の経験には、後々使い回しができる類のものと、その場限りで消滅してしまうものがあるようで、
前者を得ようと、頭がだんだんシフトして来ているみたい。




PS:
お隣さんからもらったコンビニ寿司を食べてみた。
彼は寿司はあんまし好きじゃないみたい。
こっちの寿司のステータスはそれなりなもので、
寿司のファーストフードみたいな店には結構人が入っているし、
コンビニでも、結構売られている。
で、食べてみた感想は、寿司風味の何かという感じ。
カニカマを持ってきて、これは蟹ですとこじつけているような感じ。
ご飯は硬くてプラスティックみたいな食感だし、
ゴミみたいなネタがしょぼんとしか入ってなくて、
こんなのが寿司かと思われていると考えたら、残念でならない。
表紙のタイトルはFish SUSHIになっている。
寿司は基本的に魚に決まっているでしょーが。
もらった人にはぜひ本当の寿司を食べてもらいたいが、
自分が食べさせるにはちょっと値が張るなー。
あと実際に生食用の魚って、そこら辺では売ってないんだよね。


ああ早く本場の寿司が食いたいわー。
何が好きかというと、"えんがわ"と"貝類"
白くてぷりっとした食感がたまらんです。

引越し後

引っ越してから3週間ぐらいになった。


新しいうちはまあ都心にあって、
いわゆる渋谷みたいな中心地(oxford st)までチャリで15分と近い。
でも都心といっても、日本の方が圧倒的に物量とか人とか規模が凌駕していると思う。


このうちは前のうちと違ってワンフロア4部屋と台所。
前のうちと比べると、だいぶ差がある。まあ都心だから仕方ないんだけど。
でも人数は前のうちと同じ7人。密度がかなり高く感じる。


ポーランドカップル。
カザフスタンの全然似てない双子
スウェーデン人とモーリシャス人の夫婦。
スウェーデンといっても長く住んでいただけで、もとはスリランカ人。
なので肌は黒い。なんともばらばら。
そして、みんな話せる言語は3つが基本っぽい。
母国語。自国に公用語が存在する国がある。世界共通語としての英語。
日本のように、自分の国が単一の言語の方が少ないようだ。
カザフスタン公用語はロシア語。カザフスタン語は別に存在する。
別に知っているリトアニア人もやっぱロシア語が話せる。
歴史的背景からしてもソ連だかロシアの影響はでかいんだろう。
だからその彼女らに聞いてみた、二人はいつも何語でやり取りしているの?
ロシア語らしい。忘れてしまうからだってさ。

みんなの英語の発音が超適当

もう、自分の国のアクセント丸出し。
まあ伝わればなんでもいいんだけどね。
何年いてもアクセントは変わらないものなんだろうなと思った。
別にブリティッシュアクセントがよいというわけではないが、
なるべく聞き取りやすいアクセントで話した方が、相手に理解されやすいと思う。
聞き取りやすいアクセントってなんだろうね。よくわからんが。


だから、自分はできるだけ、この人の話し方かっこえーなと、
思う人を真似ようとしてはみる。
今のとこ誰かと言うと、Jason Statham(トランスポーターの主人公)とか。
ま、難しいね。でも目指すのは勝手。

みんな金のために来ているし、仕事を探している

自分の国ではいい条件の職が少ないし、そもそも金額の桁が全く違う。
そりゃ自然と体が動くわな。
彼らからすれば、バカ高い学費のリターンとして、高い給料を得る。
逆に先進国出身だと低い学費のリターンとして、低い給料を得る。
まあイギリスより物価の高い国なんて世界にそんなにないだろうけど。
でもロンドンに比べ、東京の家賃は高いと思う。
それだけきれいな家に住んでいるというのもある。


多くの人は物価の安い国から来ている。
そんな中でも留まりたいと考えている人も結構いる。
考えても見て欲しい。自分の国で働いて500万ぐらいだったのが、他の国に行ったら、
ウン千万の価値とかそういうことが起こりうる。そりゃ目の色が変わるわな。
こういう点で日本から来る人と圧倒的に条件や意欲が異なると思う。


留まるためには、会社に就職してワークパーミットをもらう必要がある。
そのためには、大体が大学へ2年ぐらい行っていたりする。
卒業証明をもらい、それを証明として会社に就職するというのが普通みたい。
自分の知り合いでも英語学校を終えて、大学に行く人もいる。
みんな大体20代前半から真ん中が多い。
ちょうど遊びつつ適度に勉強しながら、英語をインプットしていくという具合。


大家は多分インド人

金持ちでレクサスを乗りこなしている。
契約の為に彼女のうちに行ったが、それはそれはでかくてきれいなお屋敷だった。
場所も高級住宅街にあって、リージェント運河沿いのとこ。
玄関で靴を脱いだ。こういうのはアジアで共通。
家の中に土足を持ち込まないのは、家をクリーンにする知恵だと思う。
何気なくやっている日本の文化をこういうとこで認識する。


2009/10/6追記
大家はアフリカ出身だった。。。
マラウィだって、全然かすりもしてない。大陸違うし。
だんなさんはイギリス人っぽかった。
マラウィってこんな国みたい。

環境を変えると見えてくることがいろいろある

いかに前のうちが親しみやすくて、居心地がよかったのかを。
いろんな日曜大工道具はそろっていて、広い台所だって使い放題。
家は一階から3階まであってそれぞれの部屋は広い。
デービットは昼間もうちにいて、時間があればとっ捕まえて話した。
キャロルはテニスコートに連れていてくれて、タダでテニスさせてくれる。
たまには飯を食わせてくれる。
大体はベークドポテトかチキンの丸焼きだったけど。
WEBを作る際は、キャロルと何回か打ち合わせたけど、いい英語の勉強になった。
何せ自分が伝えたいことはあるのに、なんて表現すればいいのかわからんし、
でも伝えんと前に進めないという状況があった。
そんなときは、紙に図を書くことが一番解決しやすいと思った。


デービッドが毎日台所を掃除していたのも今となっては、ありがたいと後々からわかる。
こっちに移ってから、掃除は毎週持ち回りで回ってくる。
ということは一週間に一度しか掃除されないわけだけど、
まあ前に比べたら汚い。流しとかもつまりがちだから、排水溝を空けて掃除したら、
まあヘドロの真っ黒なのがたまっているわけよ。だから一日かけてじっくりと掃除した。
ま、自分のうちは自分たちでやると言うのは当たり前のことなんだけどね。


掃除をしても、大家がやってきて、何この汚いうちは!」
って文句言い出して、モップがけをさせられる始末。
なんだそりゃ。。。


みんな大家はクレイジーだって口々になじっている。(大家が帰った後で)


最近はそんな感じ。
こっちにいるのはあと3ヶ月ぐらいだけど、
何かしら拾えるものは拾っておきたいかな。