潜龍鍼師

WEBから鍼灸へ変えた話

180度方向転換

二年半前に、パニック症になった。

仕事しすぎていたのもあるが、仕事を取り巻く環境がストレスがだいぶ溜まっていた。

人はやめていくわ。不信感は募るわで。

そもそも、自分の体はそういう状況に耐えられるような丈夫な作りではなく、

だいたいストッパーとして、体に変調がきたす。

 

いままで思い返すと、中学生の時に、学校ある日だけションベンに行きたい病とか、

大学の時も、部活の幹部として、胃がキリキリする一年を過ごしたら、あとで胃潰瘍の後があったとか。そして会社に新卒で入って3年もすると、少しは仕事を覚えた反面、責任が降ってきて、胃潰瘍となった。

 

そんな感じで、体は常に敏感に反応する。いきなり大病になるよりはマシなのかもしれないが。こういう体質は母親の家系からのものらしい。

 

パニック症とはどうなるか。特に何も理由もなしに、心拍数が上がり、

呼吸が乱れ、場合によっては過呼吸が出たりして、ひどくなると手足が痺れて、ひどい人は、意識を失うらしい。ただ生命に異常はない。なった当時これがパニック症なのかどうかもわからず、精密検査を受けるまでは、全く生きた心地はしなかった。

 

自分は2016年の4月に初めてそうなったが、ほんとに死ぬと思った。底なしの恐怖だった。こうやって人生って終わっていくのかと思った。親より先に死ぬのかと思ったら、すまないなという感情も湧き上がってきたが、とにかくそんな余裕もなく、救急車のサイレンが聞こえてきた時、少しだけ安堵があったように思える。

 

この年は結局もう二回救急車を呼んだ。毎回わけもわからず、苦しんだ。いったいどうすればいいんだろうかと。毎日生きるのが暗く沈んで、希望が見いだせなかった。いつ発作が出てくるのか、全く予測不能だったし、常に救急車を呼べるように、携帯を常に手元においていたし、怯えていた。

 

この時に大きく変えたことがある。

健康に対する全てのことを変更した。この時まで、不摂生な生活をしているという自覚はあった。いつか大きな病気をするんじゃないかという意識もあった。それでも仕事に忙殺されて、健康のことは二の次だった。

変えたこととして、仕事の量を大幅に少なくした。食事を野菜中心に変更し、自炊中心にする。風呂に毎日はいる。夜早く寝て朝型にする。日光に当たる。定期的に運動をする。楽しいことをする。

とにかく生きることに必死だった。

 

当然医者には行ったが、そもそも一体何科に行けばいいんだろうか?総合病院に行ったが、循環器では異常なし、心療内科に行ったが、なんか薬をくれはするが、いざパニックでたら、そんな信頼性のない薬は自分は飲むことができなかった。適当に話聞いて、ぽいっとくれる薬に、自分がやばい時の命綱として、預けることができるだろうか。自分には無理だった。他の人達よくやっているよなと思う。

少なくとも薬に依存するのは、自然ではないと思ったし、自分の中で起きていることなので、何かしら出口はあるものと思っていた。

 

で、そうこうして、半年以上たった正月(2017/01)に、たまたま自分の親が行っている、鍼灸の先生のとこが評判がいいらしいので、行ってみることにした。わらにもすがる思いだった。その先生からは、何かとてもいろいろな話を聞いた。西洋の医者と全然違うと思った。人の話を聞いてくれる。

結論から言うと、教えてもらった灸が圧倒的に効いた。臍の丹田に打つことで、パニックがおさまってくれる。そしてこれは自分自身でできることだった。この日を境に、東洋医学って一体何なんだという思いと、同時に訳のわからない世界に足を踏み入れることになる。

 

8年ぶりに書いてみる

ブログがいまだ廃れずに、なくなっていない。

それは、多分必要とされるからだろう。

自分の手元で書き残しておくことは簡単だが、

もし価値がある情報で、公開するなら誰かの役にたたないか。

 

自分を知ってもらうために、あるいはこの時期にどう考えていたか。

あるいはアウトプットの練習として、記録を残しておくことは無駄なことではなく、

自身を成長させてくれるのだろうか。

 

案外、自分が1年前、5年前、10年前に何をどう考えていたかなんて、記憶をたどっても、かすかにしか覚えていない。

 

自分はなにげに15年前にノートに日記的に書いていたものがあり、

たまに見たりするが、若気の至りというか、日々のことに一喜一憂しているしがない学生だが、なんか楽しそうだなと。それなりに未来を描いていて、理屈っぽいとこもあったななんて。

 

過去の自分と向き合うことは、おそらく未来の自分と対話しようともしているのかもしれない。

なんということもない日々のこと

最近うちの外人チームが盛り上がっていて、
毎日夜遅くがんがん音楽鳴らしている。
今日は隣から苦情の電話が来たらしい。
ま、当然といえば当然だわな。
でも、一点だけいい点がある。
それは、防犯上とてもいいんだろうなと。
どの泥棒もこんなうるさいくて、汚くて、金目のなさそうなとこ
入りたくもないだろうなー。
みんなはどうでもいいから、部屋の鍵なんてかけずに、
ぱーぱーのまま、外へ出かける。
古きよき日本の姿が今だ残っているのかもしれない。


2斤ほどのパンの耳を売っているパン屋がある。
そのボリュームなのに40円。これにオリーブオイルとバジルを絡めてトーストする。
まさにNEETクッキング。一週間毎日おやつで食べてもおつりが来る。


うちの外人が覚えたての日本語を変な発音でいう。
それNEETクッキングだとか、NEETパンだとか。
言っているその本人だってNEETなんだけどねぇ〜。

最近のトレーニング

最近はもっぱらテニスばっかし。
そりゃ、カイトも行きたいし、合気道だって始めたいが、
金と時間に左右される。


で、結構テニスの壁打ちを週5ぐらいでやっている。と前に書いたかな。
一日一時間半ぐらいのエクササイズとして。
やり始めは相当きつかった。今でもきついけど。体力が相当落ちている。
でも、汗かいて息を切らせると、飯はうまいし、集中力もつくみたい。
膝は相変わらず痛いがごまかしながらやっている。
でも、もくもくと壁に向かってひたすら打っていると、
何を目的としているか分からなくなってくる。
壁が友達なのか?


でとうとう今日コートに出た。実はネットには便利なサイトがあって、
知らない人といきなり会って、さー試合しましょうみたいな出会い系のテニスサイトがある。
出会うたって、女の子なんてほとんどいないけど。実際には定年のおっちゃんが多い。
http://www.tennisoff.net/

朝の6時から9時まで3時間。ダブルスをひたすら5人で回した。
もうへろへろ〜。おっちゃんパワー強すぎ。
とにかくフォアのストロークとリターンを強化する必要性を感じた。
でも壁打ちでは無理。他の方法を考えねば。
で、コートとボール代をみんなで割って、なんと300円!やすっ!!
この満足でこのコストはかなりのお徳。


普通に自分でコートを予約するのは結構大変。
市のスポーツ施設は安いから予約が殺到する。
なので2ヶ月前からシステムで予約しておく必要があるが、
このテニスオフネットならば主催者が既に予約してくれているから、
自分はオフネットのサイト上から数日前に参加申込をするだけ。


こんなサイトを生み出すことができれば、プログラマ冥利に尽きるかもしれない。
人と人をつなぎ会わせられ、長く必要とされる、そんなサイト。

久しぶりの更新&近況

年末から更新してなかった。
気が付くと、5ヶ月が既に過ぎているのはびっくり。


近況として、千葉に今住んでる。
で、やっぱりシェアをしているんだけど、その人数が多くて24人。
自分の中では他の人と過ごすということは、人生の中で大きな課題。
放っておくと、どんどん一人の世界に入ってしまう自分の性格を理解しているつもり。
寝るためだけに帰る家なら、どうでもいいが、
今は仕事場を兼ねているから、ほとんどが家。
一人で家でこもりっきりになっていたら、精神がどうかならないほうがおかしい。
かといって、外に出て行くほうではないし、そんな金ないし、
じゃあ、自然と人と関わるように環境に組み込むべしと思った。
外人も5人ぐらいいるから、自宅留学も兼ねて。


いろんな人と話すと、圧倒的に情報量が多くなる。
身近な例だと、料理のこととか、地域のお店情報だったり、


まあ、そんな最近でした〜


PS:そうそう最近は運動不足解消で壁打ちテニスしてます。

ラオスでバス事故

ラオスでバス横転事故に遭った。


まあ人生長くなるといろんなことが起きるもので、
いろんな経験をする。去年の赤痢に引き続きって感じ。
なかなかオチがついて、ネタには事欠かない。


場所はラオスの南部のパクセからさらに南のチャンパサックに行く途中だった。
バスは11時に出る予定だったが、人が集まらないために12時に繰り下げられた。
待っている時に同じバスに乗る予定の日本人と会い、待っている間飯を食いに行った。
この時、彼とこの先結構長くいることになるとは夢にも思わなかった。

飯を食って戻ってくると、乗る人が相当集まっていて、こんなのに乗れるんだろうかと言う感じだった。
これでもかと言うぐらいに過積載。屋根の上にもぼんぼん荷物を載せるし、
狭い3列の乗り合いバスのシートは全員ぎちぎちに詰めても人が乗り切らず、
後ろの一段低いとこにも4人ぐらい立っている。

印象的だったのが、バスの運転手の面がネプチューンの名倉にそっくりだった。


そんなこんなで、バスはチェンパサックに向けて、やっとこさっとこ走り出した。
自分は隣のタイ人と英語で話し始めた。
「I love you!!」ってラオ語でどういうの?とか、かわいいねーは?とか。
回りに女の子がいてくすくす笑っているのを横目でみながら、
旅のこういう空気を楽しんでいた。


と、突然バスが揺れだした。なんだなんだ?
1回2回左右に振られる。その振りがどんどん大きくなる。
5回目ぐらいで、これはマジでやばい!倒れるー!


画像はイメージっす。
画像は事実に近しきイメージっす。ていうか画像撮っている余裕なんてなかった。













ガッシャーン!!!と同時にキャーっという叫び声がバス内に響く。
さっきの轟音とはうって変わり、静まり返った。
一体何が起きたんだ?
、何とか我に返ってとにかく自分の精神を落ち着けようとする。
自分の体に異常ははないだろうか。可動するか?骨は?
心臓がバクバクいって、むしろ痛みを感じない。
完全に動物的な臨戦態勢になっている。

おそらく数秒しかたっていないと思うが、
赤ちゃんや女の人の泣き声が聞こえてきた。

自分は進行方向に向かって左側に座っていた。
そして、左側に倒れたから、右側にいたおばちゃんが降ってきた。
そして、人の塊に埋もれた。
体が動く事を確認すると、反射的に倒れたバスの上によじ登っていた。
おそらく、バスがさらに倒れたり、火災発生などの2次災害を避けるために、
体が勝手に動いたものと思われる。

バスから降りる時に、どうやら体の左側全般的に動きが悪い事を始めて確認した。
乗っていた人はみんな地べたにうずくまって呆然としている。
血を流している人も結構いる。
元気な人は悲痛な感じであーだこーだ言っている。
おそらく名倉似のアホドライバーに文句たれているんだろう。


乗り合わせている日本人がうずくまって痛そうにしているのを見つけた。
どうやら腕が動かないらしい。脱臼みたいだ。にしても痛そう。

数分もたたないうちに、すぐにトラックがやって来た。
病院に連れて行くからすぐに乗れと。警察ではない。近所の誰かみたいだ。

こういう時には、こういう国の人の連携と言うのをすごく感じる。
自発的に動かねば、誰も助けてくれない未整備の社会だからというのもある。



そのトラックがまた飛ばす飛ばす。これまた豪快なスピードで。
確かに急を要しているというのもあるけど。
しかし、乗り合わせている日本人が脱臼している右腕が振動して痛がっている。
また、こんなスピードでまた横転したら今度は命がない。
そう思い、slow!!slow!!と力いっぱい叫んだ。
当然運転手には届いていないし、英語を理解すらしていない。
隣のラオ人がラオ語にで○△?って言い出した。するとトラックは減速した。


元々出発したパクセーに戻ってきた。
そこしか病院はないらしい。南部では一番大きな町だけあって、
施設としてもそれなりに大きい。運悪くこの日は日曜で医者がいなかったので、
駆けつけてくれるまでに30分とか時間を要した。


運ばれた人達におそらく重症の人はいなかったと思う。悪くて骨折。
でも額や頭から流血している人もいるから見た目は結構ひどく見える。
それでも意識不明とかはいないし、うめいているような人もいなかったのは幸運だった。


ラオスの医療は適当である。本当に重症な人で外国人ならば即座にタイに輸送されるらしい。
じゃ現地人はというと適当な処置だけで済まされてしまうとか。
また処置のための金がないというのもある。
レントゲンを撮っただけで35000kip(¥420)ぐらいする。
この金額は外国人の一泊の宿泊料である。現地人からしたら法外な額であろう。


自分の場合、外から見て特に問題なく見られなかったから、
何も処置してもらえなかった。
打ちつけた左側全体が、時間が経てば経つほど痛みが増してくるから、
湿布みたいなものを要求したら、タイガーバームを塗っておけと言われた。
このレベルではむしろ処置をしてもらった方が怪しい。
誰かに聞いた話では、ラオスで目薬を差したら失明したとか。怖いわー


乗り合わせていた日本人の人が脱臼していたから、肩を入れる時は結構大変だった。
始めに部分麻酔をかけて、それでダメなら全身麻酔でやろうと。
でもラオ人は強いから麻酔なんかなしでやるよと医者にあおられて、
彼も部分麻酔で肩を入れる事を決意した。
医者が2人がかりで"せーの"って入れたら、ぎゃーって悲痛な叫び声を上げていた。


そういうやり取りを英語でしていたが、彼は英語が分からなかったので全てその場にいて翻訳した。
事故がおきてから3時間ぐらい経過していたが、左肩、左腰、左足が結構痛くなってきていてそれなりにしんどかった。
レントゲン室とか処置室とか清算とか、ぐるぐるあちこちたらい回されるんだけど、
思うように動けず、あちこちがきしむように痛む。
まあそれでも英語はやっておいてよかったと思った。
例えば麻酔(anesthesia)という単語とかでも
記憶の片隅に引っかかっていて、何のことなのか理解できた。
こんなラオスの辺境の地でもやはり意思疎通は英語である。


たまたま現地の病院で働いていたJICAから派遣された日本人の看護婦さんにそういう話を聞いた。
彼女から聞いた話では、数ヶ月前に起きたバス事故では18人が死んだらしい。
それを聞いて背筋が凍った。と同時に生きているということは偶然でありラッキーだとも思った。


パクセーには4日ぐらい滞在した。その間、日本人の彼と一緒に滞在した。
自分は歩いて外に出るのが困難だから飯を買ってきてもらった。
彼は英語が話せないから、自分が付き添いで病院へ行って(byトゥクトゥク)、
彼の保険関係の書類作成とかの翻訳をした。
自分は旅行保険にも入ってなかったし、まあお金もらえたとしても数千円の話だし。
まあそんな感じで互いに補完していた。お互い相手がいなかったらさらに困難なことになっていただろう。


またタイミングは悪いことに、ラオスの滞在期間がもうすぐ2週間になろうとしていた。
それを超えると不法滞在となる。日本大使館に事故の旨を伝えて、
なんとか臨時でVISAを発行してもらえないか問い合わせたら、
不法滞在しても罰金を払えば出国できるとの回答だった。
一体どんな事が業務内容なんだろうかと疑問に思った。
とにかくなんとか日増しに回復傾向にある体を鞭打って出国するしかない。
と言っても、パクセーからタイの国境まではせいぜい2時間ぐらい。
そこからバンコクまでは13時間ぐらい。


移動中、最悪だったのが、腹がなぜか下痢ってトイレ駆け込んだはいいが、
和式トイレが基本だから、足を曲げると激痛に襲われる。
そんなのお構いなく下痢はやってくる。バスもそんなに待ってくれない。
もたもたしていると置いて行かれそうになる。
とにかく何でこんなに追い詰められているかわからんが、
我慢、忍耐、気合としかいいようがなかった。去年の赤痢を思い出す。


バンコクに戻ってきたら、まあ体も大分楽になってきて、
なんとか階段上がり降りもできる感じになってきた。
カオサンロードで一番楽なのが、飯。30秒歩けば屋台がある。
そんな感じで一週間すでに予約した航空券を待ってなんとか帰ってきた。


まー、いろいろあるもんですねー。


この旅の画像もUPしたんでどうぞ。

タイ
  バンコク -> スコータイ -> チェンマイ -> チェンコーン -> フエーサイ; ->
ラオス
  ルアンパバーン -> バンビエン -> ビエンチャン

チャリ旅行記 日本縦断編 その3

2001/9/24 函館 => 黒岩 87km

朝起きたら、相当いびきをかいていたらしい。
みんな引いていた。自分の下に寝ていた人は顔が引きつっていた。
ものすごいバイク並みのサウンドだったとか。すんませんねー。
朝からまたおっちゃんが酒を振舞い出し話し出す。長いんだこれが。
宿を後にして、ラッキーピエロのチャイニーズチキンバーガーなるものを食った。
まあ、うまいけど、自分で作ってもこんなもんじゃないかと勝手に思った。
五稜郭を横から見てみたけど、ただのお堀にしか見えんかった。
あれは上から見ると、幾何模様みたいですごいのにね。

函館を出て少し北にいったとこの峠を越えたら、どーんと山が見えた。
これぞ北海道といった感じ。
森(地名?)に行ったら、なんかやらかした犯人が逃走中だとか。
マジかよとか思って、足早にそこを離れた。
そうそう、"いかめし"は完売だった。残念。
明日は"かにめし"が食いたいなー。って食い物ばっかし。
というのも、北海道に上陸するまで、
観光っぽいことをせずひたすら一日中がりがりこいでいたから、
とうとういろんなもの食べたい欲が爆発したっぽい。カツゲンもお気に入り。



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2001/9/25 黒岩 => 虎杖浜 136km

今日は朝一かにめし(¥1000)を食った。
まあまあの味だけど、一度食ったらまあいいかな。
室蘭で雨に降られてブルー。
音の鳴る砂浜は雨でならねー

登別のさぎ湯、すっぱくて鉄っぽくて硫黄の味、飲めないらしい。
味だけチェックして吐いた。


道の途中で函館の宿で一緒だった人たちと再会した。
彼らとは、今日の宿を共にすることにした。
というのも宿というか、銭湯に入ると、
二階の座敷で一晩寝れるらしい。ナイス情報サンクス。

夕方は例の銭湯に行って、ひとっ風呂浴びて、例のバイカーと飯を食った。
例によって、彼らはガッツし食材持っていたので食べされてもらった。
この場を借りてお礼、あざーす!



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2001/9/26 虎杖浜 => 札幌 103km

またまた朝から飯を食わせてもらった。
やっぱバイクだといいわなー。
いろんなものを搭載できて、料理とかもガッツしできる。
うどんとほたて缶詰、うまかったわー。

天気は雲一つない快晴、言うことなしだ。
そこら辺の地元のおっさんと話していたら、
どうも近くに温泉があるらしい。早速行ってみた。
その名も"フンベ温泉" これぞ正に"旅"といった感じの
汚くてちっちゃい掘っ立て小屋が海の崖の上に立っている。
眼下には海が広がっている。最高だった。
中に入るとまず目に付くのが、怪しげな三つの絵が飾られている。
両サイドは船の絵で、真ん中は女の絵。色使いがもう毒々しくて、
イメージとしてはムンクの叫びみたいな感じ。
早速服を脱いで浴槽に浸かる。
味はそう海の近くっぽく塩味が利いていて、ホタテの風味も心なしかする。
色は白く濁っている。
見晴らしが最高で、ホント生きててよかったと感じる時だった。
九州から毎日がりがり走りづめ走って、幾度となく雨や風が行く手を阻んだ、
そんな記憶の先の出来事だったので、爽快感も格別だった。

人生で感動する瞬間って、単にギャップだったりしてとこの瞬間感じた。

空は晴れ渡っていて風が気持ちいいー、そんなお昼の出来事。


とうとう札幌に来た。自分にとっては初めてだ。
かなり栄えている。すすき野を通り過ぎて、H大に行く。
そこでH大ヨット部のKと待ち合わせ。今日は彼のうちに泊めさせてもらった。
そうそう、その前にH大ヨットの先輩の送別会に臨時ゲストとして出席したら、
うちの部の一コ先輩のMさんが研究の為にH大に長期滞在していた。
というかほぼH大ヨット部員として、溶け込んでいるようだった。
なんでも、研究の為に日々や熊と格闘しているとか。どこまで本当なんだろう。



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2001/9/27 札幌 => 小樽(祝津) 40km

朝一起きて、二度寝してしまった、次起きたら10時を回っていた。
やべー遅刻やー。
というのも、H大ヨット部の練習に参加することになった。
Kは車で後輩を拾って先にいくから、
俺はチャリで行くことになっていたけど、いくらなんでも遅すぎやろー。
片道40km遠いのー。彼らは毎週末これを往復しているというのか。
祝津に着いた。ホント知っているのは数人だけ。
主将のM川は7帝に来ていたから知っている。
彼のネタだったケンシロウはおもろかった。今でも覚えている。
ハーバーの前の青塚食堂の花魚丼はマジでうまかった。
http://pds.exblog.jp/pds/1/200809/26/56/c0097856_0575471.jpg
ほたて汁とかつけものも細やかで、ほっけの蒲焼風かな。山椒もぴりっと辛くて。


午後からレーザー(一人乗りヨットの艇種名)に乗った。
旅の締めくくりにレーザーに乗るとは夢にも思わなかった。
昨日は秘湯で気持ちよか〜ってやっていたのが、今日は海でヨットである。
移り変わりにも程がある。


練習を見ていたが、代交代して間もないというのもあるけど、
まだまだ先が長いなーと思ってみていた。でも北海道の冬は厳しく、
3週間後には海上での練習は終わりらしい。
あとちゃんと練習を定期見てくれるOBが不足していて、
Kぐらいなんだとか。やつも愛想尽かしている感もあるけど。
夕飯はKにドンキーでまたまた食わせてもらう。わりーな貧乏なだけに。
艇庫というか合宿所は築3年ですげーきれいだった。
夜には恒例のミーティングに出席して、なんかえらそうに言ったみたものの、
あんまし参考にはなっていないだろうから、流してもらえればと思った。
その日は艇庫で寝させてもらった。艇庫と言ってもうちの大学とは雲泥の差で、
どっかのコミュニティーセンターといった感じ。
にしても毎度、他の人、いびきごめんなさい。



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2001/9/28 小樽 => フェリーで福岡へ戻る

朝は混ぜご飯とちょっとドロッとしたスープを出してもらった。
貧乏チャリダーにはありがたい施しだ。
朝から強風で出艇中止。トレーニングと座学することになった。
まあ自分はすることがなくなったので、再び旅に出た。と言えばかっこいいけど、
単に小樽港から出ているフェリーで福岡に帰ることにした。
(直行便がなかったので、小樽=>新潟 =100Kmチャリで走る=> 直江津=>福岡)
旅の最後を部活の合宿で締めれたというのは、なんかよかった。
ところで何でレスQの事をチャカて呼ぶんだろう?


最後どうしてもいくら丼を食べたくて、
探し回ったんだけど、いまいちここは当たりだろうというとこが見るからなかった。
そんなこんなしていたら、フェリーを危うく逃すとこだった。
どうもこういったタイムマネージメントが抜けているのは反省の余地がある。
六花亭のバターサンドは相変わらずうまかった。ホント大好き。

まとめ

こうして自分の念願だった日本縦断は幕を閉じた。
旅の中では毎日がめまぐるしく変わっていく。
結論としては本州は基本的にそこまで刺激的ではなかった。
まあ、ひたすら北を目指してこいでいたというのもある。
北海道はチャリダーとかバイカーとか変な人らが集まってくるからおもろくなる。
また、そういった人が集まる場所に行かないと会えない。


必要なことはこんな感じ
①いつも強いイメージを持ち続ける。
②実行するために必要なもの(情報・道具・資金・体力)を集めておく
③一歩踏み出すかどうかの勇気


布石として前回の屋久島の経験にも大いに助けられていると思う。
あの経験から、大体一日平均移動距離が類推できたり、
体力や実際に想定される不具合に対して先回りして対処できたと思う。


データ
 走行距離:2300km
 走行日数 :17日 2001/9/11-28
 一日の最長移動距離:230km 2001/9/17
 一日平均移動距離:135km/day