潜龍鍼師

WEBから鍼灸へ変えた話

死ぬとは、生きるとは

死ぬとか生きるとか余計な考えが、どうも頭から払拭できない。
普段の生活ではそんなことは一切でてこないんだが、

ふとした瞬間に一気に意識が拡張して、でてくる。

ラオスでバス事故にあって、PTSDになったりとか、
3年前にパニック症になったりとか、
病気になるのが怖くて、東洋医学を勉強したりとか、
解剖実習でご遺体を見て、死が怖くなるとか、
すべて、同じ理由みたいだ。

 

ごまかすことは簡単だ。楽しいことや、忙しくすればどんだけでも、

忘れることはできる。しかし、それはあくまで一時忘れているにすぎない。

いざ死を感じる場面に直面すると、暴走していく。

 

そこで、死をもっと前向きにとらえて、マイナス面よりも

もっと有効に活かせないかを考えた。

そこで出てくるのが、スティーブ・ジョブスが言う、

「もし今日が人生最後の日だったら、私は今日やることをやりたいだろうか?」

だ。人生最後の日をリアルに感じるって、結構難しいんですけど。

 

そこで坐禅修行で、そういう境地にできないかなんて思い、

三泊四日寺に籠もった。

 

得られたこととして、意外なものだった。

自分の理解がどこまでできているかだいぶ怪しいのだが、

仏教の考えとしては、

 

苦しみや悲しみや死の恐怖というのは、そもそも存在せず、

私自身で生み出しているにすぎない。

本来私というのは、空である。そのことを理解した者は、

解脱したあるいは悟ったなどという。

 

理屈でどんなに理解することは簡単だが、

そのようなものでは更に理屈で覆ってしまい、堂々巡りとなる。

 

そこで、感覚としてある境地に達する、というような原体験が必要となる。

そのためには、多くの人は修行を行い、そこに近づいていくらしい。

そしてその結果、瞬間瞬間を無心に精一杯生きるという点が残るらしい。

 

なんということだろうか、今まで葬式のためのお経と思っていたものは、

実は生きて悩める人間にこそ必要で、重要なメソッドだった。

こんなスキルを、何千年も前からあるのに、日々使わないなんて、

なんてもったいないんだろうかと思ってしまった。

 

懸命に今を生きることを積んでいった先には、

死ぬ瞬間にやるべきことは全てやった、"我が人生に悔いなし"

と死を受け入れられる日が来るのかもしれない。