潜龍鍼師

WEBから鍼灸へ変えた話

神様って

神って言われると、なにか絶対的な存在で、逆らえないもの、全宇宙を統括する全知全能のみたいなそんなイメージ。

 

東洋医学を勉強したりしていると、人間は小宇宙に例えられ、神とは、自分の中の生理活動と精神活動を統括するものである。

失神というと、神の機能が著しく低下したような状態。患者さんの体の状態を把握する時に状態を見極めるために、神を望む。

よくいう神様と東洋医学の神は関連があると考えた。

仮に、神様というものが、自分自身の中に存在していると考えるなら、いままでとは違った捉え方になるのではないだろうか。

 

自分の家から5分のとこに神社があり、一週間に3回ぐらいは手を合わせる。
あの手を合わせる行為は、お願い事をするとかで、実際叶うわけ無いでしょと、
その理屈がいまいち理解できなかった。
ただ昔から多くの人がそうしてきたのには、何か意味あるのではと思っていた。

 

もし、お参りという行為が、自分の神と出会うという行為だったら、どうだろう。
自分の本質、本性と向き合うために、あえて神社という空間によって引き出す。
鳥居をくぐった瞬間雑念は消え去り、無の境地に至り、自分自身の本質と向き合い対話をする。

そういう儀式的な意味を持たせるためにあえて仰々しく構造を作っているのかなと。

神は自身の奥深いとこに格納されていて、なかなかアクセスしづらいから、
周りの雰囲気や空間を演出することで、対話しやすく引き出しているのではないか。
もしかしたら、意識の深いとこにアクセスしやすい瞑想状況などに
すぐ持っていけるように普段から訓練しておく必要があるのかもしれない。

 

また、儀式というのは、そういう為にあるのかもしれないし、
極限の状況や感情が強く動かされる時に出てくるのかもしれない。

とにかく、余計な雑念が渦巻いていては、深いところにアクセスができない。

 

なぜより深いとこにアクセスがしたいかというと、そこが生きる原動力であり、

知らず知らずのうちに意思決定をしているコアだから。
それを理解せずに、自分が信じられるだろうか。

 

もっと簡単に表現すると、本当に正直な気持ちと向き合うということだと思う。
年齢を積み重ねるほどに、利害関係やしがらみ、あるいは小さい欲から大きな欲など、
いろいろなものに囚われて、順列がつきにくくなる。

後から振り返ると、魔が差したとかなんでこんな事をしたんだろうかということは誰しもある。

 

しかし、自分の本質というのは、三つ子の魂百までというように、
そうコロコロ変わるものではなく、嫌なものは嫌、好きなものは好き
より、本性に近く生きたほうが、まっすぐ、気持ちよく生きられる。
そのためには、自分をより深く理解して置くのは重要な意味がある。

 
そんなふうに考えると、自分としては、とても意味のあるものに感じるように最近なってきた。

神社で手を合わせるたびに、今日は正直であれただろうか?
明日はもっと本質に近づけるようにどうあるべきか?
明日死んだら本当に後悔しないように、今日を生きれただろうか?
というようなことを問いかけるようにしている。