潜龍鍼師

WEBから鍼灸へ変えた話

チャリ旅行記 屋久島編 その1

自分は旅行が好きだ。
子供の頃は家族で旅行によく行っていた。
おそらくその影響で、遠く知らないところに行くという行為自体が自分を高揚させる。


自分の移動手段はチャリだ。
なんで、そんな疲れることをするの?って人によく聞かれる。
それはもう男のロマンとしか答えようがない。
そんなタテマエはどうでもいいとして、まあ実のとこは、金が浮くというのもあるけど、
自分の足と体があれば、どこへでも移動が出来るという
一種の独立精神とか自信みたいなもの。


高校の頃に友達と二人で、名古屋から琵琶湖へ日帰りで往復したことがある。
ざっと150Km やれば出来るものだなとそのとき思った。
また ある日、高校の図書館でありえない本を手にした。世界をチャリで回っている人の話。
世の中広いもので、こんなきちがいみたいな人がいるものなんだとも思った。


知るということは、妄想をより現実世界へと近づけてくれる。
その頃から、どんだけ遠くへいけるだろうかと本気で考えるようになった。




時は過ぎて、高校の頃から6年後。
ちょうどヨット部を引退してやっと時間ができた春、
兼ねてから妄想していた、自転車旅行を現実なものとすることにした。


しかし、初めてのことで全くどうしたものかよくわからない。
とりあえず自分の相棒となる自転車は念入りに整備した。
なにせこのチャリ粗大ごみで拾ったものだ。
確か自分が大学1年生の時にまだ粗大ごみの日があった。
その戦利品である。
GETした時から既に4年は過ぎているだろうか、
それでも押入れに保存していたからまだまだ使えそうだ。
ちなみにこの自転車 2009年現在 ロンドンに持ってきていて、いまだ現役である。
拾ったときがおそらく'97なので、既に12年、
日本のあっちこっちとヨーロッパをともにしている。
かわいそうな自転車、せっかくお役ごめんで退役するはずのとこを、
自分に目をつけられたばっかりに、さんざんこき使われるとは夢にも思っていなかっただろう。
ホント最近身の回りのものが10年以上の付き合いのものが多くなってきた。
フリースにしろ、バッグにしろ。裁縫セットなんて小学校で使っていたものだ。
まあそれだけ長く使っているものには信頼を置いているし、
特徴を熟知しているというメリットがある。


1日目 福岡 ⇒ 八代 150Km

さて、手元の記録として残っているノートを眺めてみると、
なになに、2001/2/28 初日9時40分出発となっている。
記憶とは不思議なものだ。8年前のことなのに良く覚えている。
この日の天気はそれなりに晴れていて、快調に進んでいた。
峠の上りではかなり汗ばんでいてTシャツ一枚だった。
最終的に力尽きたのが、八代。確か夜の9時に着いた。
福岡から出発したので、150km走ったことになる。
一番問題だったのがどこに寝るか?
とりあえず河川敷の公園でテントを広げて寝てみたが、
電車の音と風による草がざわざわいう音で気が気ではない。
あるいは時折犬の散歩らしき人の足音がザッザと聞こえてくる。
疲れているにも関わらず、ものすごくどきどきしていた。
そんなんでうっすら寝たり、意識が戻ってきたりを繰り返していた。
外はまだ薄暗い。明け方ごろなんかぽつぽつと音がする。
外を見てみると、がーん初日から雨かよ。最悪だ。

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2日目 八代 ⇒ 川内(せんだいせんない)112km

多少疲れていたが、仕方がないテントをさっさとたたんで出発した。
これ以上この場所で安眠できるはずもない。
雨がぱらぱらしている、じゃーじゃーではないのが救いだ。
どんどん正面からの風が強くなってくる。
たしか北に低気圧があって、南からの湿った風が吸い込まれているようだった。
結局午前中に進んだのは15km。昨日とは雲泥の差だ。
まずいことはさらに重なる。タイヤがパンクしてしまった。
いや大丈夫だ、ちゃんとスペアのタイヤは2本も持っているじゃないか。
しかし、チューブラタイプはママチャリタイプと違って、セメントでリムにくっつけるタイプだ。
普通なら一日ぐらいは乾かす。そういえばツールドフランスとかどーやってんだ?
とか思ったが、まあこの際仕方がない。そのままタイヤ交換して走り出した。
まあ、なんとか調子はいいみたいだ。


日が落ちて、あたりが薄暗くなってくる。
道の駅 阿久根で休んだとき、どっかの社長風で脂の乗ったおっさんに話しかけられた。
そばにはきれいで若いおねーさんがいた。一体どういう関係なんだろうか?
と思ったが、コーヒーをおごってもらった手前、おかしな事は言えない。
鹿児島から屋久島へのフェリーの話とかこのあたりの宿について話した。
ああこういう旅っていいなーと初めて思った。自分の中ではこれは旅行ではなかった。
自分の足一つでここまでたどり着いて、地元の人に暖かくサポートしてもらえている。
などとたった2日移動しただけで、ジーンと心に染み入っていた。
で、結論としては警察にいって、宿を紹介してもらえということになった。


ここからさらに30kmほど南にいったとこに川内とかいて"せんだい"と呼ばれる町に来た。
既に時刻は21時を回っている。警察にいって聞いた宿に行ってみた。
なんとか反応があり、泊めてもらえることになった。(4000円/人・泊)
まあそもそも、テントに泊まればいいのだが、
雨の中さらには昨日の夜のショックで、さすがに今日は外で寝る気になれなかった。
でこの宿、なんでか釣りバカの写真が廊下にいっぱい飾られているなと思って
なんでと聞いてみたら、どうやらこの宿、釣りバカ9の撮影に使われた宿だとか。
釣りバカ9は以前に見たことがある。確かにいわれてみるとそんな感じがする。
残念なことに実際に使われたのは隣の部屋だったのだが。
偶然だけど、なんか旅っぽい展開だなと一人ほくそえんでいた。
ぬれた服を乾かすことが出来て、この日は満足に布団で爆睡した。
この日の走行距離は112Km

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3日目 川内 ⇒ 鹿児島 50km

さて目標の鹿児島までわずか50kmと迫っている。
このくらいなら歩いたっていけるねん。よゆーと思っていたのは、間違いだった。
途中から膝が痛くなり出した。
体は全ての原動力、たった一つ欠けても前に進めなくなる。
改めてこの事実を思い知らされる。
仕方がないから30分ぐらいそこで座っていた。
そしたら、まあなんとか回復したからそーっとこいでいった。
一瞬、串木野で太陽の晴れ間を見たときにはものすごく幸福を感じた。


人間って、最悪な状況を経験すればするほど、普通の状況に幸福を感じるものなんかなと。
幸福をあまり感じれない人は、普通の状況をどん底に落とすといいのかもしれない。
普通は落とすことは怖くてなかなか人間できないものなんだけど。
とにかく、落差があった時になんらかのおおきな感情を抱くようにできているんだろう。
当然あがる方がいい。でも常にあがるはずもない。
だから下げ方を覚えることも重要なスキルと自分は考えている。


バイクのにーちゃんがすれ違いざまに、合図を一瞬送ってくる。
初めはなんだなんだと戸惑っていたが、そういう人が一日のうちで何人もいる。
要するに自転車で旅している人間にはそういう習慣があるらしい。
彼らも昔はチャリチャリやっていたんだろう。


そんなこんなで、とうとう国道3号線の終着点に来た。
起点の門司からは390kmらしい。
福岡を出たときに二桁で、常に道の脇をカウントしていた。
それが今終着である。福岡からまっすぐ一本の道でつながっていることを、この時実感した。
ちょっと感動。


この日はフェリー場で寝袋を使って寝ることにした。
なにせ、他の人らもごろごろそこら辺で転がっているし。
ここのフェリー場は24時間空いている。
桜島と鹿児島を1時間に1本か2本ぐらいのペースでフェリーを出しているからだ。
明日の朝、他の島へ出港するフェリーを待ったり、
島から帰ってきて明日の朝、北上する人とのターミナルというか寝床にもなっている。


他の学生らしき人らがわらわらどこからともなく集まってきて話し出す。
屋久島から帰って来たという人からいろいろ聞いた。
荷物を枕にして目を閉じた。
屋久島への妄想は留まるとこを知らないが、体は正直で既に夢の中だった。

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